開業当時の大卒初任給は約2万円。東京-新大阪の2等車(現在の普通車)料金は2480円、1等車(現在のグリーン車)は5030円だった。
全長は在来線車両より5メートル長い25メートル、全幅は在来線車両より50センチ以上広い3.4メートルで、普通鋼を使用しているため、1両あたりの総重量は64トンにも達する。これは、鉄道博物館に展示されているC57形式蒸気機関車に匹敵する重さである。
全長は在来線車両より5メートル長い25メートル、全幅は在来線車両より50センチ以上広い3.4メートルで、普通鋼を使用しているため、1両あたりの総重量は64トンにも達する。これは、鉄道博物館に展示されているC57形式蒸気機関車に匹敵する重さである。
車内は、登場当時からはだいぶ様変わりした。
指定席は「2&2シート」で、東海道新幹線のグリーン車と同じ広さだ、
指定席は「2&2シート」で、東海道新幹線のグリーン車と同じ広さだ、
ラスト・ラン
0系新幹線は、2008年(平成20年)11月30日、こだま659号(14時51分=岡山駅発、18時21分=博多駅着)をもって、営業運転を終了した。こだま659号は、通常、博多南駅まで運行されるが、この日は博多駅止まりであった。JR西日本によれば、すべて廃車になるという。
なお、JR西日本は、12月6日、13日、14日に「0系さよなら運転」を行った。
なお、JR西日本は、12月6日、13日、14日に「0系さよなら運転」を行った。
四国鉄道文化館
運転台は、高い位置に設置されており、高速運転での運転士の視界を確保している。前面ガラスは2枚貼り合せの防弾ガラス。運転装置は2ハンドルで、マスコンハンドルを右側に、ブレーキハンドルを左側に配置している。
主速度計は、ATC速度信号を表示する機能が付いた針が横に動く大型のアナログ指針式のものである。
主速度計は、ATC速度信号を表示する機能が付いた針が横に動く大型のアナログ指針式のものである。
1969年(昭和44年)まで二等車と呼ばれていた普通車の座席は、海側3列、山側2列の計横5列配置である。銀色と青色のモケットを張った転換式座席である。
グリーン車(一等車)はゴールデンオリーブ色のモケットを張ったリクライニングシートで、4列配置とゆとりをもった空間となっている。
グリーン車(一等車)はゴールデンオリーブ色のモケットを張ったリクライニングシートで、4列配置とゆとりをもった空間となっている。
技術的背景
0系は、未経験の新技術は使わず、それまでに日本の鉄道が蓄積した、実証済みの技術の集積によって開発された、きわめて堅実な設計となっている。
主電動機出力は185kWで、1964年(昭和39年)当時、日本における電車用モーターとしては最強であった。これを1両あたり4基搭載し、16両編成時には 11,840kW(約16,000馬力)の出力を発揮している。100系より出力が大きい。
車体デザインは空力特性を考慮してた流線型になっているが、設計に携わった国鉄技術者の三木忠直は旧・日本海軍の技術将校であり、日本海軍の双発爆撃機「銀河」をデザインモチーフにしたと語っている。
先頭車両の製作は、1961年(昭和36年)、日立製作所が山下工業所に依頼した。山下工業所の創業者である山下清登さんは、当時を振り返り、「やらなければならない仕事だ」との使命を感じたという。
中学卒業後、自動車修理工場で板金を覚えた山下さんは、日立製作所笠戸事業所で蒸気機関車の部品作りなどを手がけた。山下さんが得意とするのは、金属をハンマーでたたいて曲面を形づくる「打ち出し板金」という技術。切り分けた鉄板をたたいて延ばし、微妙な力加減で曲線を作り出す職人芸だ。
木で作った原寸大の0系先頭車両の型枠に鉄板をあわせ、毎日8~10時間、ハンマーでたたき続けた。ひどいしびれから手の感覚がなくなる。山下さんとともに0系に携わり、厚生労働省が認定する「現代の名工」となった藤井洋征さんは「ハンマーの柄が1日に何本も割れた」と当時を述懐する。
なぜ、手作業なのか。通常の客車部分と違い、先頭車両は1編成に2両しかない。早ければ数年でリニューアルされる。その度に専用の金型を作り、大型のプレス機を使っていては「採算が合わないからだ」と現社長の山下竜登さんは言う。
主電動機出力は185kWで、1964年(昭和39年)当時、日本における電車用モーターとしては最強であった。これを1両あたり4基搭載し、16両編成時には 11,840kW(約16,000馬力)の出力を発揮している。100系より出力が大きい。
車体デザインは空力特性を考慮してた流線型になっているが、設計に携わった国鉄技術者の三木忠直は旧・日本海軍の技術将校であり、日本海軍の双発爆撃機「銀河」をデザインモチーフにしたと語っている。
先頭車両の製作は、1961年(昭和36年)、日立製作所が山下工業所に依頼した。山下工業所の創業者である山下清登さんは、当時を振り返り、「やらなければならない仕事だ」との使命を感じたという。
中学卒業後、自動車修理工場で板金を覚えた山下さんは、日立製作所笠戸事業所で蒸気機関車の部品作りなどを手がけた。山下さんが得意とするのは、金属をハンマーでたたいて曲面を形づくる「打ち出し板金」という技術。切り分けた鉄板をたたいて延ばし、微妙な力加減で曲線を作り出す職人芸だ。
木で作った原寸大の0系先頭車両の型枠に鉄板をあわせ、毎日8~10時間、ハンマーでたたき続けた。ひどいしびれから手の感覚がなくなる。山下さんとともに0系に携わり、厚生労働省が認定する「現代の名工」となった藤井洋征さんは「ハンマーの柄が1日に何本も割れた」と当時を述懐する。
なぜ、手作業なのか。通常の客車部分と違い、先頭車両は1編成に2両しかない。早ければ数年でリニューアルされる。その度に専用の金型を作り、大型のプレス機を使っていては「採算が合わないからだ」と現社長の山下竜登さんは言う。
安全神話
新幹線は開業以来50年間、列車事故による死者を出していない。
しかし、東海道新幹線の新居町駅から徒歩15分の丘の上に立つ東海道新幹線建設工事殉職者慰霊碑には、殉職者210人の名が刻まれている。国鉄職員の6人以外は、請負業者の従業員だ。出稼ぎ者も多い。トンネルでの土砂の崩落などによる殉職者だ。
息子を亡くした父親は、「新幹線は安全なんだろうけど、三郎を含めて210人も死んだことは忘れないでほしい。もう、そういうことのないように」と語る。
新幹線の生みの親とされる島秀雄さんの父・安次郎さんは、大正期、鉄道院の技術部門トップとして広軌への転換計画を主導した。しかし政変があり頓挫。昭和に入り、東京―下関間を新線で結ぶ戦時下の「弾丸列車」構想で再チャレンジする。
踏切のない線路を最高速度150km/hの機関車で、東京―大阪4時間半、東京―下関は9時間で結ぶ計画だった。秀雄さんも父のもと、機関車の設計を担った。
しかし、戦局の悪化で工事は1943年度に中断し、安次郎さんは敗戦翌年の1946年(昭和21年)に死去した。
完成した日本坂トンネルや途中まで掘り進んだ新丹那トンネル、買収済みの用地約100km、カーブの最小曲線半径2500mなどの設計基準は、そのまま新幹線に引き継がれた。
1955年(昭和30年)、国鉄総裁の十河信二さんは、民間企業に転じていた秀雄氏を呼び戻すため、「おやじさんの弔い合戦をやらんか」と口説いたという。
海外で初めて新幹線システムを採用し、2007年(平成19年)に開業した台湾高速鉄道(高鉄)。技術顧問に招かれたのが、秀雄氏の次男・隆さん(83)だった。旧国鉄で0系の台車設計を担い、東北新幹線200系を設計した。
高鉄も列車事故による死者は出していない。
しかし、東海道新幹線の新居町駅から徒歩15分の丘の上に立つ東海道新幹線建設工事殉職者慰霊碑には、殉職者210人の名が刻まれている。国鉄職員の6人以外は、請負業者の従業員だ。出稼ぎ者も多い。トンネルでの土砂の崩落などによる殉職者だ。
息子を亡くした父親は、「新幹線は安全なんだろうけど、三郎を含めて210人も死んだことは忘れないでほしい。もう、そういうことのないように」と語る。
新幹線の生みの親とされる島秀雄さんの父・安次郎さんは、大正期、鉄道院の技術部門トップとして広軌への転換計画を主導した。しかし政変があり頓挫。昭和に入り、東京―下関間を新線で結ぶ戦時下の「弾丸列車」構想で再チャレンジする。
踏切のない線路を最高速度150km/hの機関車で、東京―大阪4時間半、東京―下関は9時間で結ぶ計画だった。秀雄さんも父のもと、機関車の設計を担った。
しかし、戦局の悪化で工事は1943年度に中断し、安次郎さんは敗戦翌年の1946年(昭和21年)に死去した。
完成した日本坂トンネルや途中まで掘り進んだ新丹那トンネル、買収済みの用地約100km、カーブの最小曲線半径2500mなどの設計基準は、そのまま新幹線に引き継がれた。
1955年(昭和30年)、国鉄総裁の十河信二さんは、民間企業に転じていた秀雄氏を呼び戻すため、「おやじさんの弔い合戦をやらんか」と口説いたという。
海外で初めて新幹線システムを採用し、2007年(平成19年)に開業した台湾高速鉄道(高鉄)。技術顧問に招かれたのが、秀雄氏の次男・隆さん(83)だった。旧国鉄で0系の台車設計を担い、東北新幹線200系を設計した。
高鉄も列車事故による死者は出していない。
参考サイト
- 0系新幹線:日本車輌
- 東海道新幹線 0系は夢の超特急:ぱふぅ家のホームページ
- リニア・鉄道館は高速鉄道技術の進歩を展示:ぱふぅ家のホームページ
- 交通科学博物館には0系新幹線1号車がある:ぱふぅ家のホームページ
- 博多南駅で歴代の新幹線を見る:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1964年 - 東海道新幹線が営業開始:ぱふぅ家のホームページ
(この項おわり)
第8回(1965年)鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞。
写真のR61編制は2008年(平成20年)12月14日のラスト・ランで走ったもので、この最後尾車両(21-7008)は製造元の川崎重工業で保存されることになった。