建設中の東京スカイツリー

2010年8月17日 撮影
東京スカイツリー
建設中の東京スカイツリー(東京都墨田区押上1丁目1-2)を見物した。

写真では伝えることができないが、下から見上げるとその大きさに押しつぶされそうになる。

東京都心部の超高層ビルの増加に伴う東京タワー(高さ333メートル)からの放送電波障害を低減するため、2003年(平成15年)12月、NHKと在京民放キー局5社が600メートル級の新しい電波塔を建設するプロジェクトが発足した。そして、2006年(平成18年)3月、現在の場所に建設することが決まった。
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東京スカイツリー
施工は株式会社大林組が担当している。
着工当初は高さを610.6メートルとする予定だったが、2009年(平成21年)10月に634.0メートルに変更。完成すれば、自立式電波塔としては世界一の高さになる。高尾山(東京・八王子)よりも高い。

2008年(平成20年)7月14日に着工。現在、418メートルまで建設が進んでいる。すでに東京タワーを抜いて、日本一の高さの建造物となっている。
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2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災による被害はなく、3月18日13時34分、完成時の高さである634メートルに到達した。2011年(平成23年)11月には、「世界一高いタワー」としてギネスブックに認定された。
2011年(平成23年)12月に竣工。開業まで半年となった2011年(平成23年)11月22日、展望台入場券の団体予約の受け付けが始まり、応募が殺到したという。団体は25人以上が対象。予約は先着順になる。2012年(平成24年)5月22日に開業した。
東京スカイツリー
東京スカイツリーの基本理念として、次のような一文がある。
浅草や錦糸町、両国などの広域集客拠点に隣接し、交通利便性に恵まれた立地ポテンシャルを生かし、世界一の観光タワーを中核とした大規模複合開発により、地域とともに東東京エリアの新たな交流、観光、産業拠点を形成し、地域社会の活性化を牽引するとともに、国際観光都市東京の実現に貢献します。
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開業まで半年となった2011年(平成23年)11月22日、展望台入場券の団体予約の受け付けが始まり、応募が殺到したという。
団体は25人以上が対象。予約は先着順になる。

東京スカイツリーの直下には昔ながらの住宅が並んでおり、現在は、観光地といった気配は微塵もない。昔ながらの自転車に乗ったアイスキャンディー売りがいた。
写真撮影している人は多く、トイレの位置を示す看板が幾つも立っているのが印象的である。
東京スカイツリー
源森橋の付近から、浅草駅へ向かう東武伊勢崎線の電車と一緒にスカイツリーを眺めることができる。

東京スカイツリーの建設主は、東武鉄道と全額出資子会社の東武タワースカイツリー株式会社である。
2004年(平成16年)10月、押上・業平橋駅周辺地区内の地権者が「押上・業平橋駅周辺地区まちづくり協議会」を設立。東武鉄道に新タワーの誘致協力要請を行っていた。2005年(平成17年)2月、東武鉄道は誘致に協力することを発表。
東武鉄道は事業費約500億円を出資する。総事業費は約650億円と見込まれる。
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東京スカイツリー
500メートルまでは、最上部に設置した3基の特別仕様のクレーンで鉄骨を積み上げていく。一度に30トンの鉄骨をつり上げることができる。

すり鉢状に張り出している部分は、地上350メートルに位置する第一展望台だ。
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東京スカイツリー
吾妻橋を渡り、隅田川の向こう岸から見たところ。
アサヒビール本社、墨田区役所の間から東京スカイツリーが覗く。

東京スカイツリー ここから見えるよMAP(ほぼ日刊イトイ新聞)によると、富士山頂からも見えるそうである。
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東京スカイツリー建設工事

21世紀に入り、東京都心に200メートル級の超高層ビルが乱立するようになり、東京タワーからの電波が関東一円に届かないようになっていた。2003年(平成15年)12月、NHKとと在京民間テレビ局5社が「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足し、600メートル級タワーを建設することになった。

日建設計(東京・千代田区)が設計を担当した。
押上の候補地は、南北に95メートルしかなかった。エッフェル塔も東京タワーも、高さと底辺の比が3:1であったから、600メートル超のタワーを建てるにはとても足りない。デザイン設計の吉野茂は、底辺を最も長くとれる一辺65メートルの正三角形を底辺とする円柱上のタワーを描き出した。
これを受け、阪神淡路大震災を経験した小西厚夫は、五重塔などに採り入れられている心柱を鉄筋コンクリートで造ることを提案。きわめて複雑な構造に加え、中心に巨大な心柱があることで難工事になることが予想された。

大林組(東京・港区)の田辺潔 (たなべ きよし) が施工計画を生産技術部課長の鳥井茂に見せたところ、技術面で却下された。田辺は、4年をかけ施工計画を見直し、鳥井は一発で承認した。鳥居は建設総合所長に、田辺が副所長になった。田辺は、「功名心みたいなものが出てくると、それがプレッシャーとなり、思い切ったことにブレーキがかかる」と振り返る。

2009年(平成21年)4月6日、全国22社で製造する36,000トンの鉄骨と、のべ58万人が参加する巨大工事がはじまった。
37,000本の鉄骨には、高い強度と精度が求められた。
スカイツリーの3本の脚は、それぞれ別の企業――鈴木組宮地建設工業松村組西中建設――の鳶たちが担当した。宮地建設工業の半田智也 (はんだ ともなり) (当時31歳)が職長に就いた。だが、3社の仕事のスピードが異なることから、半田をはじめとする鳶たちには、さらにプレッシャーがかかった。
そんななか、3社合同で隅田公園で花見が催され、これを機会に、3社の息が合うようになってきた。

2010年(平成22年)3月29日、東京タワーの高さを超えた。この高さになると、風速は10メートルを超え、横から落雷が襲ってくる。西中建設のカリスマ鳶・森川哲治は、何かを落としたら下にいる仲間を殺してしまうという恐怖から、寝言で叫び声を上げるようになっていた。

今回撮影した2010年(平成22年)8月には、最上部に備え付けるゲイン塔をリフトアップする作業が始まった。田辺は、地上で汲み上げた重さ3,000トン、長さ140メートルのゲイン塔を、9ヶ月をかけて中心部の空洞を使って500メートルの高さまで引き揚げる計画を立てた。引き揚げた後の空洞に、追うようにして心柱を造っていく。世界にも前例がなく、そのリスクの見当も付かなかった。そんななか、所長の鳥居が癌で他界した。享年61。

2011年(平成23年)3月11日、ゲイン塔のリフトアップは9割ほど終わっており、タワーの高さは619メートルに達していた。午後、リフトアップを再開している中、東日本大震災が襲った。タワーが横に5メートルも揺れた。地震対策の心柱は、まだ建設中だった。鳶たちは第2展望台に避難した。余震が続く中、半田たち20人は安全確保のため、再び塔頂へ向かいゲイン塔を固定し、全員が生還した。
その1週間後、ついに634メートルに達した。

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参考サイト

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(この項おわり)
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